プラトニッククラウド

昨日の事を言うと、鬼が寂しげに微笑む。

23. ワインと革命

ローザ、ロッソ、ロゼの違いを今日は考えていた。何も調べていない状態の私は、全てイタリア語で赤という意味だと思っていた。

まず、ロゼが脱落した。調べたところ、フランス語で濃いピンクという意味だった。考えてみれば、ロゼワインはピンク色であるし、ワインに冠される色はフランス語が妥当であるように思う(ただ、ワインは英語で、フランス語ではヴァンである)。

次に脱落したのはローザだった。これはイタリア語でピンクであった。考えてみれば、ロードレースのグランツールの一つ、ジロ・デ・イタリアのリーダージャージはマリア・ローザといい、ピンク色だ(ロードレースの大規模な大会では、タイムトップの選手だけが着るジャージ、リーダージャージがあり、ジロ・デ・イタリアなどの有名な大会では名前が付けられている)。

そういえば、ローザ・ルクセンブルクという革命家が居た。第一次世界大戦期のドイツでマルクス主義を掲げ、スパルタクス団を結成した女性だ。彼女とカール・リープクネヒトが起こした革命は失敗し、二人は処刑された。革命に血は付き物だ。成功しようが、失敗しようが。

そして、最後に残ったロッソがイタリア語で赤の意だった。ワインの他は、ボンゴレ・ロッソくらいしか思い浮かばない。どちらかといえばボンゴレ・ビアンコの方が好きだ。

22. たなうらと特権

手の表側と言われると、つい手のひらを思ってしまうのだが、よく考えれば「たなうら」という語が手のひらを指すことから、明らかに手の表は手の甲であった。
そもそも、手の平は形状、手の甲・足の甲は様態、足の裏は相対的位置を示していて、対応関係としては綺麗ではない。せめて、手の裏・手の甲、足の裏・足の甲だったらまだ良いのにとは思う。
たなうらは良い言葉だ、たなごころほど温かみを推してこない。むしろ影のある感じで堪らない。文明の利器は、原始的道具も、人間の手の表で扱われることはない。行為という特権はたなうらに与えられている。

21. 声と告白

自分についてのコンプレックスはあまたあるが、最も大きいものは何か自問してみると、声だと気づく。声が最大のコンプレックスだなんて、他にあまりコンプレックスがないのかと思われそうだが、そうではない。内面・外見至るところに劣等感を抱えてはいるが、世界で一番自分が劣っていると思う項目は声だけである。

録音された自分の声の醜悪さには、誇張なしに耳を塞ぎたくなる。誰しも、普段は骨伝導で聞こえている自分の声を、録音媒体などによって空気伝導で聞くと違和感があるらしいが、私の場合は違和感ではなく嫌悪感が発生する。普通に話している分には何も感じないが、何かの拍子に録音された自分の声を聞くと、こんな醜い音を自分は平気で発しているのかと死にたくなる。

ここまで強いコンプレックスだと、人に言えない。自分の弱みを人に言えるのは、慰めて貰える算段があるときだけだ。誰かにコンプレックスを打ち明けて楽になりたいとずっと思ってはいるが、私の声の聞き苦しさを冷静になって再認識した相手の顔を想像して、その願望を捨て去る。フラれる覚悟がなければ告白は出来ない。仕方なく、私の声を知らない人にそっとこの劣等感を打ち明ける。

20. ナポレオンと手札

中学生くらいから、トランプゲームを好むようになった。高校時代に遊んでいたのは、専らナポレオン。いわゆるトラックテイキングゲームで、場に強いカードを出した人がその順のカードを全て取り、最終的には取った絵札の数で勝敗が決まる、というゲームだ。

ナポレオンで一番ワクワクするのは、なんといっても手札を捲る時だ。自分に与えられた手札が一気に目に飛び込み、そのゲームのプレイングを一瞬で頭の中で組み立てる。強い時には強いなりの、弱い時には弱いなりの戦い方があるのだ。

手札の中には強いカードが2枚。ナポレオンになれる強さでないのは一目見て分かる。弱いカードをなんとか処理しつつ、強い2枚では確実に取りたいところ。切り札も大してない。そういう戦い方だ。どこかに1枚くらい、捲り忘れた手札は……

19. 五月雨と時雨

梅雨が明けない。どのくらいの経てば梅雨が明けるのか、一年経てば必ず忘れてしまう。結局、鬱々とした日々を目を瞑った状態で過ごすことになる。

さみだれと云えばいくらか清々しくも聞こえるが、明らかに「さ」の音のおかげである。このジトジトした、革製品がぬらぬらと肌に触れ、イヤホンが頰を生ぬるく打ち、電車で誰かの傘が太腿に密着する、この雨の季節に「さ」の音は似合わない。

「しぐれ」は分かる。人々が忙しなく動く、冬の京の都をさっと濡らして去るあの雨には、「し」という音も似つかわしい。ただ、「さみだれ」はどうしても合わない。梅雨(ばいう)が音としては一番しっくりくる。もしくは、「みだれ」とでもするか。

18. 罪と罰

最近モヤモヤしていることがあり、普段ならツイートしているかもしれないが、140字に纏める能力がなかったのでこちらに書こうと思う。


何か事件があったときに、断罪したがる人は多い。誰かを叩くのは娯楽の一環だという言説を見たこともあるが、強ち間違いでもなさそうな気がする。娯楽だとすれば悪趣味だとは思うが、理解はできる。ただ、最近ではこれがエスカレートして、罰の重さを決めたがる人を見かけるようになった。恐ろしい欲望だと感じる。


顕著だったのは、芸人の反社会勢力への闇営業の一件だ。吉本・ワタナベともに、出演芸人に無期限謹慎の罰を下したが、これに対して、軽すぎるだとか、解雇すべきだという意見を相当な数見た。この「べき」はどんな規範から導かれる「べき」なんだろうか。

「闇営業は契約違反だから悪い」「反社会勢力と繋がりを持ってはいけない」「嘘をついてはいけない」というそれぞれの主張は正しく思えるけれど、「故に○○の罰が妥当だ」という結論は導かない。誰も罪と罰を計量する天秤を持っていないのに、自分には正しい罰の重さが分かると信じている人達が、怖い。


同じようなことを、千葉の殺人事件での極刑要求の署名が18万人分集まったというニュースを見たときにも思った。死刑にして欲しいという感情はよく分かるし、感情だけで言えば私もそちらに付きたい気がする。しかし、死刑が「正しい」判決だとは私は主張できない。罪の重さはそう簡単に触れられるものではないし、だからこそ法によってある程度機械的に処理できるようになっているのだと思っている。


感情論は誰にでも使える武器だし、簡単に振りかざすことができる。ただ、何でもそれで叩き潰せると思わないで欲しい。あなたの怒りは「正しい罰の重さ」の根拠にはならないから。

17. テトリスと睡眠

先日、ちょっとした時間を潰すためにテトリスのアプリを入れた。すぐに積み上がってしまうので、短い隙間時間にはうってつけだった。しかし、あろうことか少し上手くなって、少しハマってしまった。ちょっと上達すると、一回のゲームに20分以上かかってしまい、お陰で睡眠時間が大幅に潰れている。一度睡眠のリズムが狂えば、取り返しが効かない。生活はもう詰んだ盤面である。