プラトニッククラウド

昨日の事を言うと、鬼が寂しげに微笑む。

16. 既読と言霊

「既読無視」という言葉を最初に使った人は相当造語のセンスがあると思う。

そもそも、「自分の送ったメッセージを相手が既に読んでいるにも関わらず、無視して返信を寄越さない」という状況をはっきりと認知できるようになったのは、LINEというアプリが生まれてからだろう。手紙というのは、今頃届いているのだろうと想像するものの、本当に届いてるかは返信が来るまで分からないという、奥ゆかしい連絡ツールだった。メールもその流れを継いでいて、「既読」という身も蓋もない二文字を表示したのは、日本ではLINEが最初ではなかろうか。

当然、この「既読」というサインは相手の返信への期待を生む。それは同時に、表示させてしまった者に、半強制的に返信を強いる。「既読無視」という言葉は、既読を付けたからには無視してはならないという規範を逆説的に浮き彫りにする。

「既読無視」という言葉は、LINEというアプリに特有の暗黙のルールと、それを破っているという状況を端的に表した、スマートな四字熟語である。これが初めに使われるや否や爆発的に広まったことは想像に難くない。アップデートされ続ける世界を象る言葉は、流行語として取り沙汰されるのではなく、静かに生活の一部として刷り込まれる。何気なく使っているうちに私たちは再び、既読をつけたら無視してはならないという特殊な禁則を肯定してしまう。

敢えて言えば、「既読無視」という言葉に縛られる必要はないと思っている。言霊の幸う国に住む一人の、ほんとうにささやかな願いである。

15. 遺伝子組み換えと好感度

遺伝子組み換えでないことを主張してくる食品はあれど、遺伝子が組み換えられたことを殊更強調する食品はない。そもそも、遺伝子が組み換えられていないのは自然な状態なのだから、わざわざ書く必要がない。履歴書に、「簿記2級を取得していない」「大型自動二輪免許を持っていない」と書くようなものだ。
遺伝子組み換え作物が誠実なカミングアウトをする一方で、遺伝子組み換えでない作物はバリバリ保険をかける。此奴は聞かれてもいない質問に答え、話を自分の自慢できるフィールドに誘導し、一言一言で他人を当てこする。比べて、遺伝子組み換え作物の愚直な姿勢たるや。出自を肯定的に受け止め、声高に主張することはなくとも、遺伝子が組み換えられたという事実を包み隠したりはしない。君を積極的に受け入れることが、我々にできる最大の意思表示だろう。遺伝子組み換え作物に栄光あれ。我々は遺伝子に基づく一切の差別に反対する。

14. ミラーボールと象

『夜象』というオールナイトライブに来ている。これが初めてだ。まだ開演まで時間があるので少し書こうと思う。
23時を過ぎた電車が渋谷へと向かう。この時間帯に上り線を使う人にテンプレートはない。数は少ないが、それぞれの目的をうっすらと感じる。夜の渋谷は何度も歩いた。あまり好きになれる街ではない。整理番号順に通されたLOFT9は、小さなミラーボールが絶えず回り、鋭い反射光を騒めく観客に投げかけている。4秒に一度くらいのペースで眼に入る虹色の光は、目を落としたスマホの画面にも残像として鮮烈に残る。音楽はジャズのようだが、どことなくアジア風のアレンジがなされている。テーブルのある席も多いが、私の座る席にはなく、飲み物を置くところもない。
会場の右手側面には書架がある。じっくりとラインナップを見たいが、ライブ前の雰囲気がそれを拒む。横目で数冊の名前を記憶しつつ、その前を通り過ぎる。BGMが小さくなる。『夜象』が動き出そうとしている。

13. 深夜と安寧

昼夜逆転というのがこうも簡単に起こるとは、大学生になるまで分からなかった。昔から深夜まで起きている学生だったことには違いない。家には誘惑が多く、集中して何かに取り組むには、テレビも付けられず本を読んだら眠くなるような時間がうってつけだった。事実、受験勉強なども日が出ているうちや、親が起きているうちにしていた記憶がほとんどない。日付を回った頃から始まるのが自分のやり方だと信じていたし、別にそれは間違ってはいなかったと思う。
しかし、どう足掻いても1限に出なければならなかった中高の頃と違って、大学は時間割が日によって変わるし、大教室の講義は出なくてもなんとかなることが多い。そうなったら、昼夜逆転は当然の成り行きだった。
深夜に起きていても、ラジオを聴いたりすることは全くと言って良いほどない(大抵、タイムフリーで翌昼聴く)。ただ1人、無音の中でパソコンやスマホなどを見つめるだけだ。孤独と言ってもいいが、心中は穏やかだ。外が明るみだすまでは、時間がいつまでもあるような感覚と、なんでも出来そうな万能感という二つの安寧を甘受している。この感覚は嫌いではない。

12. 敬語と懐刀

「敬語が板についてる」今日言われた言葉だ。色々あってずっと年上の人と関わる機会が多いため、19歳にしてはナチュラルに敬語で話せる方かもしれない。とは言っても、20年近く日本で生活してきて、まともに敬語が使えないなんてことは、そうそうなかろう。
どんなコミュニティに居るにせよ、敬語は必須スキルとして顔を出してくる。否が応でもというやつだ。タメ口で通すことも出来ないことはないだろうが、ムッとする人は必ずいる。自分がその1人になる可能性だって否定できない。そこまで人間が出来てはいない。同い年だろうが同期だろうが、初めは丁寧語が基本だ。打ち解けるうちにぎこちなく「です」「ます」が剝がれて、やがて完全なタメ口になる。
だから、普段関わる人の中でお互いにタメ口を使う人の割合はかなり少ない。それは信頼感のメルクマールだ。鍵を開けて家の中に招き入れるに等しい。懐刀で刺されたら終わりだ。それ故、敬語を解除すること、それを認めることにはかなり気を遣う。冒頭の台詞を言った彼には今日からタメ口で話すことになった。2ヶ月越しだ。

11. 本と病

本を買ってしまう。これは一種の病だ。昨日は、目当ての雑誌を探し回っているときに、目に留まった小林賢太郎の本を買ってしまった。それを読みたいのも山々だが、多くの読みかけの後になるだろう。積ん読の山の頂は早いペースで入れ替わる。
本を買って満足してしまうという人もいるが、それは別の症状だ。私はいつも買った本を読みたくて悶々としている。しかし、自分の決めた順番で読もうとして自分自身を縛ってしまい、その後の方の本にはなかなか手が届かないのだ。
本を衝動的に買ってしまうのは、レポートに追われていたり、テスト期間だったりと、本をすぐには読めないときが大抵だ。今も実際、原稿に追われているところである。読めるような状態になっても、そこまで読むペースは上がらない。気分次第だ。そういう訳で、未だ読まれていない本が今か今かと塔をなしている。この病には特効薬がない。民間療法に頼るのみだ。

10. 恥と雑誌

今日は右往左往だった。「芸人芸人芸人」というムック本を買おうと書店5軒にコンビニ9軒を回ったが、遂に買うことは出来なかった。芸人の街、下北沢で探したのが良くなかったか。
探しているときに気づいたのは、週刊誌の下世話さだ。写真週刊誌など買ったことがなく、表紙をまじまじと見ることもほとんどないのだが、目当ての雑誌を探すときには否が応でも目に入った。確かに、下世話な情報は人の興味を惹く。実際私も全く興味をそそられなかったと言えば嘘になる。ただ同時に、一生買わないだろうなぁとも思う。レジに出すのが恥ずかしいからだ。
見知らぬ人に対する恥。自分の顔も名前も知らず、二度と会うことのない人への恥の感覚は人によって大きく違うのだなぁと最近実感する。大学に行くのに身だしなみを整える必要はないという趣旨のツイートを見た。その理由としては、セックスアピールの相手が居ないからだという。別にその価値観を否定する気はないが、共感は全くできない。知り合いに身だしなみの整っていない状態を見られるのは当然嫌だし、そうでない人の前でも、同じくらい嫌だ。
似たような別の状況設定も考えられる。例えば、誰も自分のことを知らない異国の地で、普段よりもインモラルな行動を取るかどうかという話もこれに近い。実際、そういう行いをする人は一定数いる。
こういうときに抱くのは恥というよりも美意識に近いのかもしれない。損得感情ではなく、純に高潔たろうとする自意識が、他人に対する恥として作用している。その自意識は、「有名人のゴシップを嬉々として知ろうとする私」が自分以外の何者に晒されることも許せないのだろう。明らかに自意識過剰ではあるけれど。