プラトニッククラウド

昨日の事を言うと、鬼が寂しげに微笑む。

29. ドラマと共学

べしゃり暮らし」のドラマを見始めた。連続ドラマは普段はあまり見ない。一話でも見逃すと、その先を見る気が失せるからだ(最近では「カルテット」がそれだった)。「べしゃり暮らし」は原作を読みたいと思っていたところだったので、ドラマが始まると聞いて、ぜひ見なければという気になった。

読みたいと言いつつ原作の情報を殆ど知らなかったのだが、主人公は学園で人気の男子生徒のようだ。テレビの学園ドラマなどで、こういう典型的な共学校の描写がされると、胸が締め付けられるような思いが去来する。それは、私が男子校出身で共学の青春に憧れているからではない。男子校出身なのは本当だが、むしろ共学に入ってそういう青春像から疎外された自分の姿を想像して、陰鬱になってしまうのだ。

男子校の最大の美点は、「モテ」という尺度がないことだと思っている。あるとしてもそれは数ある尺度、例えば「成績」「運動神経」「ギャグセンス」「リーダーシップ」「トランプの強さ」「ツイート数」「財力」、と並び立つものとしてしか存在しない。強い尺度が存在しないということは、カーストを描き得ないということでもある。少なくとも私の知る範囲ではそうであった。だからこそ、「モテ」という強大な尺度が存在する(であろう)共学校像を見せられると、鬱然とするのだ。もっと言えば、そのカーストが存在する中での自分の醜い動きを想像して憎悪を催してしまう。

「キョロ充」という言葉を知っていれば、それを思い浮かべて貰えれば分かりやすいだろう。自分は決してジョックにはなれない、かと言ってナードに徹することもプライドが許さない、そして自分に言い訳して空気を読むことに徹するのだ。選ばなかった自分への嫌悪感は吐き出しようがない。誰にも投影できない、鬱々とした自分の幻影を抱えつつ、ドラマを見続ける。