プラトニッククラウド

昨日の事を言うと、鬼が寂しげに微笑む。

30. 矯正と鍵

上顎と下顎を結びつけていた矯正器具のゴムを付ける必要がなくなった。矯正は終わらずとも、日がな一日口蓋を抑えつけ、食事や発声となれば否が応でも口蓋を抑えつけてきたゴム状拘束具を付けなくて良いというだけで、気分は軽い。

特に感傷はない、ただ現実的な問題が晩餐ののちに発覚した。今までは歯磨きの直後にゴム器具を付けることで、歯が既に磨かれていることの確認としていたが、その標識がなくなった途端、自分が歯を磨いたことを確信できなくなってしまったのだ。自らの歯の清潔を担保しているのは、あの忌まわしきゴム状拘束具だけだったのである

家に帰ればまず扉に鍵をかけるように、歯磨きののちはゴム器具を付けていた。口を鎖すようになってからというもの、鎖されないと不安な体になった。ただ、真に心穏やかに過ごせるのは、鍵のない生活だろう。


29. ドラマと共学

べしゃり暮らし」のドラマを見始めた。連続ドラマは普段はあまり見ない。一話でも見逃すと、その先を見る気が失せるからだ(最近では「カルテット」がそれだった)。「べしゃり暮らし」は原作を読みたいと思っていたところだったので、ドラマが始まると聞いて、ぜひ見なければという気になった。

読みたいと言いつつ原作の情報を殆ど知らなかったのだが、主人公は学園で人気の男子生徒のようだ。テレビの学園ドラマなどで、こういう典型的な共学校の描写がされると、胸が締め付けられるような思いが去来する。それは、私が男子校出身で共学の青春に憧れているからではない。男子校出身なのは本当だが、むしろ共学に入ってそういう青春像から疎外された自分の姿を想像して、陰鬱になってしまうのだ。

男子校の最大の美点は、「モテ」という尺度がないことだと思っている。あるとしてもそれは数ある尺度、例えば「成績」「運動神経」「ギャグセンス」「リーダーシップ」「トランプの強さ」「ツイート数」「財力」、と並び立つものとしてしか存在しない。強い尺度が存在しないということは、カーストを描き得ないということでもある。少なくとも私の知る範囲ではそうであった。だからこそ、「モテ」という強大な尺度が存在する(であろう)共学校像を見せられると、鬱然とするのだ。もっと言えば、そのカーストが存在する中での自分の醜い動きを想像して憎悪を催してしまう。

「キョロ充」という言葉を知っていれば、それを思い浮かべて貰えれば分かりやすいだろう。自分は決してジョックにはなれない、かと言ってナードに徹することもプライドが許さない、そして自分に言い訳して空気を読むことに徹するのだ。選ばなかった自分への嫌悪感は吐き出しようがない。誰にも投影できない、鬱々とした自分の幻影を抱えつつ、ドラマを見続ける。

28. サイファーとパピコ

7月24日を記しておかなければならない。あくまでなんの変哲もない一日であった。だからこそ、書き残して暗いネットの海の片隅に誰にも知られず流しておかねばならないと思うのだ。それが私の青春への供養になるはずだから。


昨年11月からラップをするようになった。8ヶ月くらいサイファーに行っているが、正直一向に上手くはならない。ただただサイファーが楽しくて毎週足を運んでいる。今日もいつも通りのサイファーになると思っていた。

しかし、いつもとは少しだけ違っていた。普段は19時に終わるところだが、今日は誰も終わりにしようとは言わなかった。誰かが飲み物を買うタイミングで少しの間チルアウトした。一人がパピコを買ってきて、片割れを僕に呉れた。パピコを吸いながら、夕空と夜空の境界を見上げていた。

小休止を経て、我々はまたラップをかまし始めた。一人が言った、16小節にしようと。8小節よりも長い分、実のあるバースを吐かねばならなくなる。段々とサイファーの方向は、それぞれの存在に関わる話へと変わっていった。全員が重いバースを吐く。その重みに潰されそうになりながら、自分も言葉を絞り出す。そうか、彼は初めてバイト代が入った日に黙って親の財布に一万円入れたのか。自分の生み出す言葉が軽く思える苦しみに耐えながら、周りの言葉に耳を澄ませた。リアルな奴にしかリアルな言葉は吐けないっていうのは正しいのだろうが、リアルじゃない奴にも耳を澄ませることは出来る。

そして、それぞれの存在理由についての話は、やがてそのサイファー自体の話へと収斂した。思えば、ラップに、そしてそこでのサイファーに、救われた奴ばかりだった。それぞれがサイファーの仲間たちに吐く言葉は、あくまで普段の延長線上であったのだと思う。ただ、普段は言わないでおいた恥ずかしいことを大声で叫んでいただけだ。周りの誰も信用できなかったとしても、両親とこのサイファーのマイメンだけは信じていいんだと、その場の誰もが確信していた。本音であることは、そう言わずとも、あたりが暗くて目を合わせることさえ出来ずとも、声で分かった。言葉というのは人をここまで通じさせられるのかと、言葉をまた信じていいんだと思った。普段は3時間で終わるサイファーは6時間後に終わり、膝には相当な乳酸が溜まっていた。5年後、10年後にも彼らと酒を酌み交わし、パピコを分け合っていられると信じている。

27. 花火と星座

現代の花火には、儚さという言葉は似合わない。言うなれば、ド派手ファンタスティックファイアーワークスショーといったところだ。

開いたと思えばすぐに消えてしまうのが花火の醍醐味だとするなら、消える前に次の花火が打ち上がる花火大会はなんのためだろう。ファンタスティックショートしては楽しめるけれど。

火花は火が自ずから花の形をとったものだけれど、花火は人間が火を花と化している訳で、それを何万発も揚げれば人工の匂いが自然と立ち込める。

10m先をも朦朧とさせる花火の烟は空を覆うようにして流れる。ただでさえ淡い、都会の夏の星座は影も形もない。ましてやそこからぶら下がって花火を見下ろすことなど。

26. 教養と一編

教養学部生としては最後のテストを今日終えた。次の試験は、経済学徒として受けることになろう。

1年半の教養学部で、私は教養を身につけたと言うほどの自信は持ち合わせていない。色々な学問の末端を選り好みして齧るような享楽に甘んじていただけだ。一番簡単なフランス語の文が書けたり、二重スリット実験の意義が分かったことが何になろうか。シュレーディンガーの猫への無理解にモヤモヤするようになったことくらいしか、今のところ現実に影響はない。

最後に受けた試験は漢詩だった。お世話になった教授に一礼して教室を出ると、そうは言ってもどこか胸打つものがあった。何も修めてはいないのに、何かが終わったという実感だけが残った。元・教養学部生として、今日のために覚えた漢詩の一編くらいは胸に留めておこうと、密かに決意した。

25. 漢詩と憂

ここ最近、更新を忘れていた。三日坊主というわけではないが、一度忘れるとその後数日忘れてしまう。歯磨きくらい定着すればそういうこともないんだろうが。

明日は漢詩の期末試験だ。この学期の試験はこれだけなので、なんとなく余裕がある。漢詩は元々、平仄・脚韻がかなり定められているが、これを日本語で読み下してもリズム感があるのはなんとも不思議だ。読み下し方を考えた先人に感謝すべきだろう。

「生年は百に満たざるに 常に千歳の憂を懐く」これは古詩十九首のなかの文句であるが、なかなか言えるものではない。自分が抱えている過分な憂を捨てて良いのだと思わせてくれる。千年以上昔の異国の人の言葉に慰められて、今日は眠ろうか。

24. 漫才と生鮮食品

今日、初めて人前で漫才を披露した。正直、初舞台にしては結構ウケたのではないかと思う。全くネタを飛ばさなかったのも良かったことの一つだ。自分の未熟さは一度棚に上げて、素直に嬉しい。ほとんど歌わないカラオケに行ったり、蚊に食われながらネタ合わせしたりした甲斐があった。ネタ合わせ中は本番の声量、本番の熱量のつもりでやっているつもりだったが、実際にステージに立つとその3倍の声量・熱量が出た。
ただ、気がかりなことが1つある。今回のライブはもう1公演あるということだ。初舞台の緊張に比べれば落ち着いて出来るような気もするが、漫才の賞味期限が切れてしまうのではないかと心の何処かに不安がある。
そもそも、コントは演劇に近いため、はじまりのシーンを演じた段階で時間はリセットされる。であるから、極端な話、同じメンバーで同じコントを二連続でやっても、(ウケるかは別として)違和感はあまりないだろう。
しかし、漫才はどうか。漫才は、その場その時その人達が会話しているという情報がかなり重要だ。だから、一度知ったことを、新鮮に知り直すということは出来ない。同じ漫才を二連続でやれば、よっぽど演技力がない限り違和感が勝るのではないか。
そして、危惧する点も正にそこにある。一度人に披露した漫才を、改めて披露するときに自分の言動の新鮮さが保たれるかどうかということだ。勿論お客さんは変わる。しかし、1人でもネタを知っているお客さんが居るだけで萎縮してしまう気がする。
漫才は水物とは言いたくない。もっと不易なものであると思う。しかし、永遠ではない。人の手に触れるたびに少しずつ腐っていく生ものではないかと思っている。たった一回漫才をしただけで、偉そうなことを言ってしまう。愚見は承知である。